堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。これまでに
4話の現代語訳を紹介したが、今回はその5「中代の若狐」(巻之二)の現代語訳である。
[訳]
宝暦一〇年(一七六〇)の加賀大聖寺大火の後、藩主による復興はすべてに広くゆきわたり、
町並みもおおよそ昔の形に立ち戻った。藩内のあちこちの山々の大木を家の建築のために
あてるため、役人が立ち合い、藩主から人々に下賜された。町の人々もこの木を運び出すこと
にかかりきりになっていた。
矢尾屋何がしの家にも知らせが来て、拝領の材木を運ぶため、下男三人を行かせたが、
そのなかに吉兵衛という愚直な者がいた。
矢尾屋には、山中の奥、桂谷というところの木をいただくことになったので、はる
ばると中代縄手や黒瀬縄手を通り過ぎて行くことになった。
三人は夜通しずっと歩き続けて、午前二時頃縄手の道を迷いながら道を行ったがた
またま火縄の火がふっつりと消えてしまい、慰めの煙草につける火もなくなってし
まった。それではと火打石を取り出して石を叩いたが、どうしても火が出なかった。
これこそは、後で思い返せば訝しいことであった。
そうしたところに飛脚らしいようすの二人連れが、飛脚提灯に火をともし、主人は
黒羽織姿、下男は紺色の着物を着ており、下男が先に行ったので、これに追いつい
て、まず煙草の火を借りようと、思わず知らず随って行ったのだが、三人ともみな
油断しているように感じた。
吉兵衛は普段から落ち着いた者であったので、気を取り直して様子をさぐってみると、
提灯の灯も飛脚も怪しく思えてきた。どう考えても飛脚がこのような山奥を通るわけがない。
ひょっとして狐の仕業ではないかとよくよく見ると、主人の方はいかにもよく化けていて、
笠のかぶりかた、羽織の着方といい人間のようにみえたが、下男は決して人間には見えず、
よく見ると時々大きな尻尾がひょろひょろと見えるではないか。
下棒たち三人は思わず吹き出して、何となさけない化け様だ、下男の狐は尻尾が見
えるし、足も獣のようだと笑った。すると主人は驚いた様子で振り返って下男を叱
りつけたようにみえたが、にわかに飛脚と見えた二人共、低くかがんで中代縄手を
走って逃げて行った。
あれこそがかのかねて聞いている中代狐だ、どうも聞いているのとは違って下手な
化け様だ、打ち殺してしまえと、三人で追いかけたが、どこかへ逃げていってしま
い、草に隠れて見えなくなってしまった。
提灯にみえたものは捨て去って行ったが、捨てられた場所には白い光がうっすらと
草むらに残っていた。それが何であれ、もって帰れば面白い見ものになっただろう
などと陽気に話あっていた。
この後中代縄手の狐が人をだますことはやめてしまった。
狐でさえ化けそこなったことを深く恥ずかしいと思ったのだろうと、それを聞いた人たちは思っていた。
人間は誰もが例外なく、こちらで計略が顕わとなり、別のところで嘘が露見しても、なお厚かましくも世を渡ってゆくものである。せめてこの野狐程には、恥を知れと痛感すると私(作者)は考える。
「中代の若狐」はこんな話である。
登場するのは、下僕三人と狐二匹である。暗い夜道の化かされそうな怪しい雰囲気の中、だまそうとする狐と、だまされそうでだまされない人間がいて、正体を見破られた狐が逃げ去ってしまうという短編である。
それだけに作者の最後の言葉がひときわ厳しく響く。化けの皮をはがされれば、狐でも恥じ入って静かに姿を消し、二度と表には現れてこない。
それなのに人間の場合は、嘘がばれても潔く退くことはしない、こう批判している。作者・堀麦水は、狐の潔さをとおして、人間の愚かさをさし示すのである。
ところでこの愚かしい人間とはだれを指すのだろうか。誰もが知っている人に違いない。
それは加賀騒動の中心人物である大槻伝蔵であると私は考えた。
なぜかの考察は、後日『三州奇談を読み解く』シリーズで行う予定である。