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徳川と前田を部下にもった部長

JUGEMテーマ:日記+情報

 

このほど全国藩校サミット金沢大会が開かれ、全国から徳川宗家18代当主や加賀藩18代当主など、旧藩主30人を含む48藩の関係者が集まった。地域に根付く藩校教育の伝統や精神を若い世代に伝える重要性を確認したという。

 

金沢の前田家当主は、東京石川県人会や県関係の催し物に折に触れて参加している。それと同様に、全国各地の昔の殿様が現在も何らかの形で活躍していることが想像される。

 

明治維新の際、藩主は東京に出てしまい地元との関係を断った時期もあったかと思うが、一概にはそうでもなかったのだろう。金沢では藩校が閉鎖となった後、藩校を下地に第四高等中学校(のちの旧制四高)を設立する際、巨額の地元負担のうち7割を前田家が支出したという。

 

それにしてもこれだけの藩主が集まっても、メインの挨拶は徳川家が行っており、昔の序列通りの面であるらしい。金沢でも加賀藩の藩主や家老の末裔が集まる会があるが、やはり家老の子孫たちは藩主を立てており、それに従っているように見える。

 

これは会社のOB会でも同じようであり、現役時代の上下関係がそのまま再現されていることが多い。人間同士の関係は、時間を超えて型にはまっているのを見ると、いじらしいような感さえする。

 

さて当代の徳川家と前田家の関係で、こんなエピソードが紹介されていた(北國新聞)。

 

前田家当代は徳川家当代より4歳年上だが、ともに日本郵船に勤めていた。この二人を部下に持った部長は、「徳川と前田の二人を呼びつけられるのは太閤様様(豊臣秀吉)以来、俺しかいない」と、恍惚感を味わっていた(徳川氏)。

 

相手は世が世なら将軍と百万石の殿である。二人に対し部長は多少の気を使っただろうが、徳川と前田は俺の部下だったのだ、と酒席のひとつ話として語ったかもしれないー

 

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